日々のこと、9月21日

日々のこと

先月まで手当たり次第に新譜を聴き漁っていたのに、今ではラジオばかり聴いている。オードリー若林が会心のラップを披露した星野源のANN、終始石川佳純への愛が炸裂し続けたオードリーのANN、ミルクボーイ駒場が振り回され続けたマヂカルラブリーのANN0、マイクロマジックの大塚食品がスポンサーについたハライチのターン、異様な数のバックナンバーが溜まっている空気階段の踊り場。一週間で消化しなければならないコンテンツがあまりにも多すぎる。これで今期のアニメ・ドラマでも追い始めようものなら僕の暮らしは暮らしの形を成さなくなる。良かった、追っているのが『Sonny Boy』と『ラブライブ!  スーパースター!!』だけで。

星野源と親しげに話す若様、最高なラップをかます若様、尊敬する石川佳純と話す若様と、先週はいろんな若様に会えて本当に嬉しい。彼の他者に対する距離の取り方はすごく理想的で、僕はシンプルに尊敬してしまう。上に見過ぎるのでなく、もちろん見下すのでもなく、とても適切なリスペクトと共に接するあの距離感。昔の彼であれば必要以上に自分を卑下していたかもしれないが、今や彼も一つの「テレビ界の希望」。抱え続けてきた生きづらさと折り合いをつけ、テレビにラジオにライブにと、洋々と広がるメディアの海を自由に泳いでいるように見える。

この時代”生きづらさ”は目に映らず、けれども誰の心にも巣食う病気のようなものだ。時に重篤で、時に感染って、それに対する特効薬はやはり自分の中にしかない。自分を許すこと、自分の機嫌の取り方を知ること、ある種の諦観を持つこと。今僕が持ち合わせている薬はこの辺りだろうか。悩んでいる人は若林のエッセイ『ナナメの夕暮れ』を是非。

さて、二週間分の日々のこと。二週間もあると日毎に思い出して行くのが億劫になるな。散文的にはなりますが是非。

日々のこと、9月21日

今月は好きな店の閉店(移転)が重なってとても寂しい。特に松陰神社前のアーケードの取り壊しに起因する一斉転居は僕の胸を激しく痛めた。『LA GODAILLE』『DASK』『nostos books』『みなと食堂』といった、松陰神社前を松陰神社前たらしめていた名店らの移転はなかなか厳しいものがある。『みなと食堂』以外はみな移転先が決まっているようで、祖師ヶ谷大蔵や経堂など、下北沢からのアクセスが良好なのがせめてもの救いだろうか。『LA GODAILLE』は先週の時点で既に予約で全席埋まっていて、その愛されっぷりは僕まで嬉しくなってしまう。幸いにも予約が取れたので、最後にあの場所でランチ。一つ一つの食材にまでこだわりが行き届いた、本当に素敵な料理と時間とをいただきました。

僕の大好きなラーメン屋『らーめん 桑嶋』も今月25日で閉店。閉店後は先輩のお店を手伝いながら経営を学ぶらしい。最後のご挨拶にと鶏白湯青唐辛子トッピングで締め括らせていただいた。『冷やしもみじ』『白桃つけ麺』『苺しろ味噌つけ麺』など、変わり種の季節麺は、まずあの店でしか食べられない。しばらくあの味が楽しめなくなるのは下北沢全体の損失だと言っても全く過言ではなかろうよ。余談だが店主の桑嶋さんは僕と誕生日が同じだ。通い始めて6年目にしてようやく気が付いた。1800円のケーキを買ってきてくれればラーメン(季節麺フルトッピング)ご馳走しますよというトレードを持ちかけられていたが、ついぞ実現せずに終わってしまうな。

別の日の昼下がり、ふらりと 下北沢『こてつ』でラーメン。一本気な僕は気に入ったものがあるとそればかりを食べる。揚州商人では酸辣湯麺を、カプリチョーザではトマトとニンニクのスパゲティを頼む。というかそれしか頼まない。同じように『こてつ』では毎度ワンタン麺を頼むのだが、この日はふと魔がさして100円積んでこってりトッピング(背脂)を追加してしまった。トラッド清湯系ラーメンが売りのこの店でこってりは邪道かと思いきや、結構あり。重たくいきたい日にはありかもしれない。店内でかかっているラジオからは再販されたスピッツ『花鳥風月』の話題が。『花鳥風月』のことを思うと僕は胸がいっぱいになって身動きが取れなくなる。『流れ星』『愛のしるし』『スピカ』(スピカ!!!)『旅人』『俺のすべて』『猫になりたい』というM1~6の完璧な流れにはぐうの音も出ない。スピッツって時折そういうことしてくる。『さざなみCD』のM1~4、『ハチミツ』のM1~6、『名前をつけてやる』のM9~11。この辺りとかもう国宝なんだよな。再販盤には『ヒバリのこころ』が入ってるというし、アナログ盤を買おうか迷う。レコードプレイヤーは持っていないが。

今週の『ハライチのターン!』でも『花鳥風月』の話がされていて嬉しい。岩井が選んだのは当然『猫になりたい』で、しかもフルでかけてくれたのが嬉しくって抱き合ってしまった(誰と?)。学生時代、澤部の家に唯一あったスピッツのアルバムが『花鳥風月』で、服のセンスと花鳥風月を選んだセンスだけは岩井も認めるところだというエピソードを得る。ラジオから得たエピソードって他のメディアからは得難いのがいいよな。一次情報感があってすごく好きだ。

ラジオを聴く時間が増え、相対的に音楽を聴く時間は減ったものの、とはいえ音楽を聴かない日は無い。特に最近はZARDのサブスク解禁のおかげで毎日忙しい。方々からZARDがすごいとは聞いていたものの、ZARDは本当にすごいな。ごく有名な曲しか知らない僕はとにかく片っ端から聴いて回るしかない。全369曲のうち、100曲くらいは聴いただろうか。『永遠』『マイフレンド』が名曲すぎて日に何度も聴いてしまう。今のところアルバムでは『永遠』が一番好き。ジャケがlyrical school『date course』と似てない!?と思ったが、改めて確認したら全然違った。ZARDのジャケはなぜこうも頑なに坂井泉水の横顔を多用するのだろうか。『TODAY IS ANOTHER DAY』だけ毛色が違うのも気になるところだし、ZARD学は奥が深そうで怖い。

Youtubeでプレミア公開された家主と台風クラブの2マンを視聴。胸がいっぱいになってちょっと泣きそうになってしまった。家主も台風クラブもいつまで経っても垢抜けないよな。この二つのバンドは、僕が考える”フォーク”の手触りにすごく近い。日常のその更に内側、心の日陰みたいな部分を掬い上げるようなフォークソングが僕は大好きで、音楽から離れたくなるような心情の時でもスッと聴けるのが嬉しい。中でも家主と台風クラブはずっと僕らのそばにいてくれるような感じがして、彼らの手を借りて僕はやっと日々を過ごしている。これはもはや依存に近いのかもしれない。頼むからカラオケに入れてくれ。あと何度もごめん、Flipper’s Guitarもお願い。

ある昼下がり、予定まで少しばかり時間が空いたので本屋を徘徊。読み損ねていた和山やま『女の園の星』の2巻を見付けたので即購入、電車で必死に笑いを堪えながら読み終える。僭越ながら、和山やまほど人間を愛している漫画家はいないと今この場で断言してしまおう。『カラオケ行こ!』『夢中さ、君に』から連なる、コメディとしての圧倒的な純度。細部に描かれる人間の馬鹿らしさと憎めなさ、そしてそれこそを愛すべきだと言わんばかりのストーリーテリング。テンパると情緒がおかしくなる小林先生も、酔うと人が変わる星先生も、悲喜交交の日常を謳歌する学生たちも。その全てが愛おしく、小さな共感性を備えているのが実にニクい。あれは人間を心底から愛して観察していないとできない表現だと、毎度いたく感動してしまう。人間讃歌的な作品が、昔からずっと大好きだ。

映画を観ないことで有名な僕も、最近は少し観られるようになってきたのかもしれない。その証拠に先月は『サマーフィルムにのって』を観たし、今月なんてアマプラで『日日是好日』を、土曜プレミアムで『マスカレードホテル』を観て、遂に月内二本という快挙を成し遂げてしまった。『マスカレードホテル』は映像がなかなかに美しくて観始めたのだが、演出が口説くて胸焼けしてしまった。演出が云々とか語れるほど”映画”というメディアを知らない僕が本当に恐縮だが、素人の僕はそう思いました。

『日日是好日』は茶道の話なので、半ば仕事!という気持ちで拝見したのだがすごく良かったな。「習慣こそが暮らしを作る」と信じてならない習慣論者の僕に、この映画は刺さりすぎた。目まぐるしい速度と振幅とで変わりゆく世界の中で、繰り返される日々の営みの中に存在する”余白”に立って初めて感じられることがある。昨日と今日、先月と今月、去年と今年、10年前と今とで同じモノに触れた時、感じられる差異。それは季節の移ろい、世界の移ろい、そして自分自身の移ろいに起因していて、その変化と巡りを楽しむことを、この映画は教えてくれたように思う。そういった違いを見つめるための余白は、同じ場所で同じ動作を繰り返す「お茶」の中にも、繰り返される習慣の中にも生まれ得て、その余白こそが暮らしを形作ると僕は信じて疑わない。何がなくとも僕らの暮らしは美しい。ハライチ岩井『僕の人生には事件が起きない』も、そういう意味だったのかもしれないな。少し目線を変えるだけで人生は面白い。そのことにゆらゆら帝国・坂本慎太郎は2歳の頃にはもう気が付いていたというのだから凄い人だ。

代々木上原・などやでやっていた辰野しずかの展示『A moment in time -ume-』を拝見。

砂糖と水を草木染めという手法で染め上げ、形作られた数々の美しい作品立ちは、展示後には全て自然へと還るらしい。期間限定で儚いものだからこそ記憶に残り続けるという主題に、ふわっと永遠と一瞬み(造語)を感じたが核心的ではないような気がする。僕の中で「永遠と一瞬」といえば間違いなく小沢健二『さよならなんて云えないよ』だ。

左へカーブを曲がると光る海が見えてくる

僕は思う!この瞬間は続くと! いつまでも

以前この歌詞に関して論じていたのは一体誰だったか。とにかくこの歌詞の意味に触れた時、電撃が走った。永遠は一瞬の中に存在して、無限に引き伸ばされた一瞬こそが永遠となる。走馬灯のように脳に刻まれた一瞬こそが永遠なのだという考えに至った時、僕のボルテージは最高潮に達し、いろんな事物への感謝に溢れ、サウナでいうところの「ととのい」の境地へと至った。あの瞬間から僕の人生は素晴らしいものになったに違いない。

この展示も言わんとすべきことは理解しつつも、僕の思う「永遠と一瞬」には一歩足りない。もっとこう、引き延ばされる感覚なのだよなぁ。写経をしてる時とか、瞑想をしている時とかにも永遠は存在するし、そういうスピってる部分が足りなかったのかもしれない。展示自体はとても美しかったので満足です。自然物だけが持っている揺らぎ、みたいな話は大好きなので。同じ品種でも実生だと別物、的なね。

その足で上原近辺をぶらぶら。することもなくなったので『ル・キャバレ』へ。今の時期、ランチとディナーのアイドルの時間はテラス席で軽食とワインだけを出していて、地元の常連客がフラッとやってきてはサクッと飲んで帰っていく。道行く人々も皆知り合いのようで、軽い挨拶を交わしては去っていくのがすごく良かった。隣の席のご夫婦が連れていたワンコが人懐っこく、カメラを向けるとじっと目線をくれるものだから一枚撮らせていただいた。

実はというもの、先日マン・レイの展示を観て以来、20世紀初頭のヨーロッパの暮らしに憧れている。芸術家たちがカフェに集い、出会い、親交を深め、そして表現を高めていく。時にそれは革命へと向かう過激な社交場ともなっていた訳だが、そこに行けば顔見知りがいるというお店はやはり楽しいよな。この歳になっていくつかそういうお店を持つようになったが、晩夏の昼下がりの『ル・キャバレ』は正しくそんな空気感で、僕はといえばまだ背伸びをしているようなむず痒さが否めない。代々木上原は僕にはまだ少し早いのだよな。下北・三茶が関の山か。

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