大学時代の友人の海外赴任が決まったらしい。この話の面白いのは、僕の知る限り彼が、上昇志向や出世欲からは最もかけ離れた男だという事だ。彼は実に不真面目で怠惰で金遣いが荒く(この悪癖はもう治ったらしいが)、優しく面白くヲタクで、そして僕の知る限りトップクラスに頭が良い。大学時代のエピソードを話せばキリがないが、彼が「進級する事」以上の目的を持って学問に臨んでいたならば、きっとどこかで身を立てていたことだろうよ。本人はブルってるとは言っていたものの、画面越しの彼は飄々としていて、きっと内心は「なんとかなる」という思考放棄で満たされているに違いなかった。出発前にはお別れ会をし、赴任中に友人と遊びに行こうなと話をした。
日々のこと、2020年5月2日。海外に行く友人と台風クラブ『下宿屋ゆうれい』とロロに寄せて
ここ数日、台風クラブ『下宿屋ゆうれい』が良すぎて胸が苦しい。
お前は今夜現れて 遂にダンスを踊らない
よそ行きのシャツをなびかせて
いつのまに 透き通ってゆく
月のない夜を歩けるか お前なしでも暮らせるか
も一度窓に腰かけて
俺のこと 惑わして欲しい
ひんやりとした幽霊の佇まいと対照的に温度をたたえた感情。ついぞ現れた幽霊は、今夜ダンスを踊らない。切なさと温かさといなたさに満ち満ちたこの曲は、これ一曲だけでテレビドラマが作れそうなくらいの日常が描かれているよな。
思えば幽霊って、なんかすごく好きだ。幽霊、ゆうれい。口に出せば出すほどその響きからは素っ頓狂な暢気さが滲み出し、いつの間にやら彼らは彼岸の存在ではなく、隣人として確かに存在しているような気がしてくる。ハンバートハンバート『同じ話』、スケラッコ『盆の国』、『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』etc… フィクションの世界では、いとも簡単に人と幽霊は触れ合い、言葉を交わし合う。けれども現実はそう甘くない。僕らは幽霊の形を知らないし、そもそもその存在にすら自信がない。
そういう意味で台風クラブ『下宿屋ゆうれい』という曲は、ゆうれいの肌触りを、ゆうれいの見付け方を教えてくれる。彼らはきっと、月の無い夜開け放った窓からそっと入ってくるのだろうし、陽に灼けた畳の角にいる。日の暮れた喫茶店、最終の映画館、春の夜のベランダ、眠れない夜。そういうところに「ゆうれい」はいて、ある時はブギを引き連れてダンスを踊り、ある時は僕を唆し、彼らを見付けて振り返っても、きっと間に合わない。
決して触れ合わない僕とゆうれいとを引き合わせるのはただの「想像力」で、台風クラブがそれをくれた。
この時代、「会えない」は僕らにとってすごく身近な出来事で、今や至る所に「会えない」が存在する。2月に観たロロ『四角い2つのさみしい窓』を思い出す。あの世界にも幾つもの窓があって、その窓1つ1つに「会えない」が存在している。けれども、あの物語は「会いに行く」物語なのだよな。演劇と現実、生と死、本物と偽物、あらゆる断絶を飛び越えて、誰かが誰かに会いに行く物語。先日Youtubeのライブ配信という形で公開された『窓辺』の第1話でも、「会えない」2人はコーヒーゼリーを想像力で交換する。今僕らにある「会えない」もきっと、拍子抜けするくらいの手軽さで、簡単に埋めることができるんだろうな。
まだ見ぬ異国の地で1人、ZOOM越しの僕らと最近見たアニメの話で盛り上がる出不精な友人のことを想像する。会えないという意味では彼もある種の幽霊だ。1年に1回くらいは、遊びに行きたいと思う。