昔から人の日記が大好きだ。コロナ以降(ちょうど年度の変わり目でもあるし、コロナとの因果関係は無いかもしれない)日記を書く人が増えた気がしていて、おかげさまで僕の生活は実に潤っている。飛んで行った先にアーカイブがたくさん溜まっていると嬉しくなってついつい読み漁ってしまう。けど足りない。もっと読みたい。そんな思いが募り、気が付けばネットの海で誰彼構わず「日記を読ませろ」と喚く妖怪と化してしまった。人を愛したが故に人に疎まれる。そんな哀しい妖怪の心を癒すのはそう、あなたの日記だ。
日々のこと、4月22日
僕のこの『日々のこと』という日記は、日常と感情の記録という側面を持ちつつ、あくまで人に読まれることを前提に書いている。こうしてネットに文章を晒す以上、何らかの見返りを求めることは欲張りでしょうか。尊敬されたり、拡散されたり、あわよくばモテたりしたい。以前尊敬してやまない先輩がnoteを書き始めた理由が「全員俺のことバカだと思ってるから」だったことを、僕は忘れない。
そんな思いもあり、このブログの文章には人一倍気を使っていたのだけれども、最近は仕事の関係で「文章の書き方」に関する本を何冊か読んだ。参考になった本、今まで無意識で行っていた作業を言語化してくれた本、ただただ時間の無駄だった本 etc… 色々とあったが、間違いなく白眉は本多勝一『日本語の作文技術』である。
SEOだのコピーライティングだの伝え方が9割だの、小手先の技術ばかりが持て囃される時代に、正しい日本語のあり方をただただストイックに論じる本書。元・朝日新聞の編集者である筆者が、論理的かつ丁寧に教えてくれる正しい日本語のルールはどこまでも正確で、そして新しい(僕にとっては)。恥ずかしながらも目から鱗をポロポロと落としながらこの本を読み切ったものだ。以来、僕はこの『日本語の作文技術』という名の六法全書の下に、ネットで見かける文章を片っ端から脳内で添削する厄介な妖怪と化した。
そうして獲得した、正しい文法というフィルターを通して世の文章を読んでいると、面白い文章と正しい文章と美しい文章と良い文章ってどれも全く違うものだということがより一層よくわかる。
嬉しいことに最近はまた、『青春ゾンビ』のヒコさんがnoteで日記を書いている。僕にとって「良い文章」の代表格って、彼が綴る日常の記録だ。何を聴き、何を読み、何を見て、そして何を感じたのか。他人の思考を覗き見て、今まで持ち得なかった感情や視点に気が付くその体験の面白さを教えてくれたのは、他でもない彼とそのブログなのだよな。
「正しさ」にはルールがあるけれど、「良さ」には全くルールが無い。日記にはその人があえて切り取った日常と感情が満ち満ちていて、僕にとってそれはどんなものであっても「良い文章」たり得る。面白い文章なら『私の時代は終わった。』だし、美しい文章というなら三浦直之が作る短歌を読めば良い。僕にとっての「良い文章」はAマッソ加納の『何言うてんねん』であり、ヒコさんのnoteであり、そしてあなたの日記なのだ。
この記事を書いている間にこたつと畳に水をこぼした。女殴るのと畳に水こぼすのだけはやっちゃいけない。金属バットは正しい。