日々のこと、2020年3月31日。コロナ騒動を受けての日記

日々のこと

2020年3月31日現在、コロナが猛威を奮っている。騒動自体はもう2ヶ月以上も続いていて、街はどこも枯れたように活気が薄く、SNSはいつも以上に殺伐としている。そんな中僕はといえば、政治批判も不謹慎さを叩く正論も必要以上のおちゃらけもアーティストの激励も、とても正しくて必要なことだとは理解しつつ、どこか浮ついていて現実味に乏しい。こんな時にまで遺憾なく発揮される僕の天邪鬼具合には自分でも辟易する。

きっとこんなことって一生に一度だと思うから、今の所感を文章にしておこうと思うのだ。街やネットの空気感、僕が目にして、そして感じた事。どんなに大切なことでも風化させてしまう僕らは、言葉で描写することでしかこの瞬間を記憶していられない。ロロ『父母姉僕弟君』はそういう物語だったはずだ。

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日々のこと、2020年3月31日

昨日は志村けんが亡くなって、日本中が悲嘆に暮れたと同時に、事態が想像以上に逼迫していることを認識した。世論の風向きが大きく変わったような実感がある。僕は決して彼に救われただとか、世代ド真ん中という訳でもないのだけれども、それでもあのひょうきんな笑顔がこの世に存在しないという事実はどうしようもなく悲しい。

千鳥・大悟が語る志村けんの姿が好きだった。いつかの『いろはに千鳥』で話していた、志村けんが越前蟹についているタグをスニーカーにつけているという話。それを見た大吾の「明日から横歩きですか?」というイジり。二人の仲が良い理由が透けて見えるようなこのエピソードがずっと心に残っている。こんなおじさんが親戚にいたら楽しかっただろうなと思いつつ、最早彼は日本人全員の親戚のような人であったような気もするというのは言い過ぎだろうか。

石黒正数先生の「心細い」という表現があまりにも僕の感情と噛み合っていて、電車で思わず涙ぐんでしまった。

世界の終わりに日記を残すというと、思い出すものがある。そう、『7SEEDS』の龍宮編だ。

隕石による人類の滅亡を避けるため地下シェルターに逃げ込んだ人々が、その密閉空間が仇となり、ダニによって全滅してしまう。主人公達はシェルターの住人が残した手記から当時の状況を知る、という話なのだが、どこか今の状況とも被る部分があるよな。

今はまだ楽観的で余裕のあるこの日記も、時を経る毎に増していく閉塞感と犠牲者の数に次第に暗さを帯びていき、ゆっくりと人類が滅んでいく様子を記す最後の執筆物になっていくかもしれないなどと妄想しつつ、その可能性もあながち無いでもないのが恐ろしい。

 

病床やICU、人工呼吸器の台数は限られていて、感染爆発が起これば命の選別をしなくてはならないとまで医師が言っている以上、どこかのタイミングで致死率が爆発的に跳ね上がるのは容易に想像がつく。もっと言えば人類の歴史上、戦争の死者数よりも疫病の犠牲者の方が圧倒的に多い訳で。人口密度が高まり、高度にグローバル化が進んだこの時代、今回のウイルスは人類を滅ぼさないと誰が言い切れようか。イタリアなどでは外出は原則禁止、無断の外出で陽性反応が出た場合は殺人未遂の容疑で即実刑だというから、事態の深刻さは押して知るべしだ。

Twitterやネットニュースを見ていれば、今正にここが分水嶺。既に予断を許さない状況であることは火を見るよりも明らかなのに、目に映るのはどうにも危機感を感じないInstagramのストーリーと街をゆく人々。天下に名の轟く天邪鬼であるところの僕は、SNSで強い言葉を使うのがとても苦手なのでだんまりを決め込んではいるものの、僕とて思うとこくらいある。

とまあ、今なお危機感の薄い人々の振る舞いには心がざわついたりもする訳だが、少し考えを変えることにした。要するに、ネットじゃどう足掻いてもリーチできないエリアが世界にはあって、そこにはいくらボールを投げ込んでも反応は無いのだと。

以前、こんな記事を読んだ。

これを読んだ上での僕の結論は、「想像力の欠如は、時に人を殺め得る」だ。

以前オードリー・若林『ナナメの夕暮れ』を読んだ時にも似たようなことを感じた。自分の書いた文章を引っ張り出してくる僕の無粋を許してほしい。

この本を読んで分かったのは「若林みたいな人がいる」という事。そしてその中に「生き辛さ」は明確に存在していて、「僕はそれを知らなかった」という事。

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想像力とはすなわち、理解だ。気を配る、思いを馳せる、視点を変える、仮説を立てる。どう言い換えてもらっても構わないが、想像力無くしては、他人も社会も未来も、時には自分自身のことでさえ満足に理解ができない。そして、その想像力を養うために必要なのが「文化」だ。

以前僕は、「カルチャー(文化)」とは全ての人の営みの総称だ、とのたまったことがある。

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今でも全く同じことを思う。小説・漫画・音楽等のフィクションはもちろんのこと、人の発言や都市のあり方など、その全てが僕らの想像力を養うカルチャーだ。

2019年のフジロック、White Stageに立ったマヒトゥのこの言葉を、僕はきっと忘れない。

ここに連れてきてくれたものが、金とかコネとか、そういうものじゃなくて

自分達の想像力だと思ってて

もう何かに捉われる時代じゃないんで

これからどんな時代が来ても、想像力だけ捨てずに

僕は昔からフィクションに触れてきたし、今でも毎日のように漫画を読んでアニメを見て音楽を聴いている。おかげさまで想像力は人並み以上に培われてきたとは思う。だからこそ、僕は僕以外の人のことも、この状況が続けばどうなるのかも理解できる。今もなおコロナに対して脅威を感じていないように見える人々のことも、恐らく理解できる。

ネットで届く情報には限界があるということ。情報が届いて尚自分事化に時間がかかる人がいるということ。企業のように巨大な身体を携えての決断には物凄い力を要するということ。終わりの見えない苦境と自分の夢や城を天秤にかけても踏ん切りはつかないということ。

いろんな立場を想像してみて、必要なのはより上位の意思決定だけなんじゃないだろうか。

きっとこれからもこういう局面はいくつも訪れて、その度に世の中の形は少しずつ変わっていく。想像力の有無が生んだ乖離も拡がっていく。もう少しくらい、僕にできることもありそうなもんだと思ったりもする。

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