小沢健二『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』に寄せて

いい音楽

小沢健二は魔法を捨てた。

今まで彼がその歌と言葉で魔法をかけ続けた都市や家庭、果ては人々の関係性だとか世界の成り立ちだとかそういったものの一切を忘れ、極めて私的な歌詞に、自身のアルペジオを乗せる。そこには今までのオーケストラやSEKAI NO OWARI、満島ひかりといった精鋭を引き連れた魔法使いとしての彼の姿は無く、古くからの盟友である岡崎京子に宛てて曲を書く「小沢健二」という個人の祈りのようなものが見て取れる。岡崎京子とオザケンの関係性については後述するとして、その詩と言葉で人々を魅了するオザケンが『きっと魔法のトンネルの先』とすら宣言しているのだ。この曲は彼が魔法をかけたその先、日々の営みだとか街のあり方といった、日常に寄り添うようなトラックだと解釈していいはずである。

僕が学生時代ペジオ(由来はアルペジオから)と呼ばれていたエピソードはどうでもいいとして、この曲を聞き、いてもたってもいられずこうして文章を書いている。

 

私的なエピソードと人間の想像力

駒場図書館、原宿、日比谷公園といった具体的な名詞もそうだが、個人に紐付く私的なエピソードも散りばめられたこの曲。

下北沢珉亭 ご飯が炊かれ麺が茹でられる永遠

シェルター 出番を待つ若い詩人たちがリハーサル終えて出てくる

特にこの部分に関しては、つい最近まで下北沢という街に住んでいた僕としては様々な情感を呼び起こされる訳だが。では果たして、この曲がこんなに響くのは僕がオザケンが大好きで、下北沢に住んでいたからだろうか。

思うに、本来ポップスというのは大衆に受け入けられる音楽であって、その間口は全方位に広く開いていなければならない。極めて私的な体験に基づく楽曲というのは、ごく一部の人々には深く共感を呼ぶ反面、それ以外の大半の人々には受け入れがたい醜悪な音楽にしかなり得ない。ところがその点は流石オザケンといったところで、絶妙なバランス感覚で、やりすぎないラインを完璧に保っている。それどころか完璧に最上なポップスではないか。

では、何がこの曲を極上のポップスたらしめているのだろうかと考えた時、それはやはり人間の想像力に他ならない。

僕らは、例え実際に見たことがなくとも、日比谷公園の噴水が虹を描く様子を、あるいは下北沢シェルターからバンドマン達が出てくる姿をありありと想像することができる。僕らはその想像力でもってして、数々の音楽を自分のものにしてきたはずだ。

そしてオザケンは、そんな人々の想像力を信じている。そのことは、童話のような世界を投影し、

いつか虚構と現実が一緒にある世界へ

と歌った『フクロウの声が聞こえる』からもそうだし、

だけど意思は言葉を変え 言葉は都市を変えていく

と歌った『流動体について』からも見て取れる。

オザケンはその魔法を捨て、僕らの想像力を信頼した。そしてあえて余白を残して作られたこの『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』という曲の解釈を、僕らに委ねたのである。

この頃は目が見えないから

手を握って 友よ 強く

 

小沢健二とルネサンス

小沢健二がその音楽でやろうとしていることは、ルネサンスだと断言してしまおう。

きっと魔法のトンネルの先

君と僕の言葉を愛す人がいる

本当の心は 本当の心へと届く

きっと魔法のトンネルの先

君と僕の心を愛す人がいる

汚れた川は 再生の海へと届く

自身の音楽が人々に届くと信じて疑わないその姿勢は、もはや人間性そのものの肯定だ。

だがオザケンとて、ただ盲信的に人間性を肯定している訳ではない。

近年のオザケンの精力的なメディア出演や、リリースの頻度、SEKAI NO OWARIや満島ひかりとのコラボといった数々の活動を見れば、彼が今の音楽シーンに向ける熱量だったり、アーティストとしての使命感は明らかだし、現在においてもカルト的な人気を誇る「小沢健二」にしかかけられない魔法を彼はかけ続けた。そしてその魔法にかかった世界では、オザケンの本当の心と言葉は人々に届く。

オザケンの魔法は、音楽を聴く全ての人々に宛てた祈りだし、音楽を紡ぐ全てのアーティストに手渡すバトンなのだ。

 

岡崎京子と小沢健二

ミュージックステーションで「この曲は友情だけでできている」と語ったオザケン。今までその歌と言葉をもって僕らに魔法をかけ続けた彼がそう語っているのだ、その言葉も真っ直ぐ解釈していいだろう。

お互い90年代に絶大な人気を誇り、長い休止期間を経て、現在においても大きな影響力を持つアーティストである岡崎京子と小沢健二。2人の友情に関しては推し量ることしかできない訳だが、その関係性は盟友や戦友といった言葉をもってしても過言ではなかろう。

きっと魔法のトンネルの先

君と僕の言葉を愛す人がいる

本当の心は 本当の心へと届く

きっと魔法のトンネルの先

君と僕の心を愛す人がいる

汚れた川は 再生の海へと届く

この「君」というのが岡崎京子を指していると素直に解釈すると、それは現在においても第一線に居続ける戦友・岡崎京子に向けたエールだと解釈できる。

ポップミュージックの体を成しながらも、友情だけでできていると語ったこの曲はその実、初めから極めて私的なメッセージだったのかもしれない。 

 

おわりに

リバーズエッジ、観なければ。


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