モラトリアムと燻った日常。石黒正数『ネムルバカ』は最高の一冊。

人生で一冊。たった一冊を選べと言うのならば、僕はきっとこの一冊を手に取るだろう。

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『それでも町は廻っている』の石黒正数が送る、一巻完結の大傑作『ネムルバカ』

僕がこの作品に出会ったのは高校生の頃。それから8年もの間、常に僕の心のどこかにはこの作品があって、ガソリンのように僕を突き動かしている。これまでの人生で一番大きな影響を受けた作品だし、もう何度読み返したかわからないけれどもその度にエネルギーをもらっていて、この作品無くしては今の僕は形成されていなかったとすら思っている。

たった1巻、30分にも満たない時間で、こんなにも価値観を揺さぶられる。そんな作品は『ネムルバカ』をおいて僕は知らない。








石黒正数『ネムルバカ』

思い返してみれば大学時代、僕はこの漫画に出てくる先輩のようになりたかったのかもしれない。

バンド、飲酒、バイト、居酒屋、惰眠、鍋、単位、自主休講、色恋。僕の大学生活に強い関連性を持つ単語を並べた訳だが、これってきっとどこにでもある、ごくありきたりな大学生活だ。もちろんこれらとは全く縁遠い素晴らしく華々しい大学生活が無数に存在することもわかっちゃいるが、大半の人が思い浮かべる大学生活って、きっと自堕落で怠惰で生産性に乏しく、ただただモラトリアムを消化するだけの日々だと思うのだ。

『ネムルバカ』で描かれているのも、そんなダラダラとした何も生まない大学生の日常だ。

 

あらすじ

お金も恋人も夢もなく、何者にもなれない自分に焦る大学生・入巣ゆみと、バンド活動でプロを目指す先輩・鯨井ルカ。オンボロの学生寮で過ごす2人の日常を描いたのが、この『ネムルバカ』という作品。

何と言っても、僕はこの先輩というキャラクターが大好きだ。憧れているし敬愛している。粗暴で、投げやりで、金欠で。けれども優しくて、ユーモアがあって、思い切りが良い。

具体的な話はネタバレになってしまうので割愛するけれども、初めて読んだ時からずっと、2人が内職のアルバイトで骨董品を磨くシーンがたまらなく好きだ。先輩の優しさと発想がいとも容易く後輩を救うこのシーンが妙にカッコよくて、ずっと心に残っている。先日久々に読み返していて「こういう先輩になろうと無意識に考えていた」と感じたのもこのシーンだ。

作中で描かれるのは、そんなアルバイトの一幕だったり、深夜のドライブだったり、寮での宅飲み(死語?)だったりと、どうにも既視感のあるシーンばかり。それを石黒正数の持ち味であるひねくれた筆致とユーモアで、ありきたりながらも僕らの燻った日々に火をつけるような作品に仕上がっている。

さて、そんな『ネムルバカ』の一番の主題は、この2人のキャラクターの対比。つまり夢を持つ人間と持てない人間の対比だ。

 

夢を持つ人、持てない人

この作品で一番の名言は何と言ってもこれだろう。

やりたいことのある人とやりたいことがない人の間に

何かしたいけど何ができるのか分からない人ってカテゴリーがあって

8割方そこに属してると思うんだがね

未だかつてこんなにも芯食ったセリフがあっただろうか。

ギャグもミステリーもSFも、何を書かせても抜群に面白い石黒正数という漫画家の真髄って、きっとこのセリフに集約されていると思うのだ。Twitterでの言動とか『それ町』におけるおちゃらけた態度からはそれを窺わせないけれども、その裏には人間の本質を捉える彼の鋭い感性があって、「人間」というものを僕らよりもずっと詳しく知っている。彼の漫画には人間味が宿っていて、だから面白いしものすごく刺さる。

先輩には夢がある。それはもちろんバンドで売れて、音楽で食べていくことなのだが、その道には当然苦労も苦悩もある。

バンドとバイトでいっぱいいっぱいの生活、努力と才能、保証のない未来、過ぎていく時間 etc… 苦悩の種は尽きないし、プロとそれ以外の間にある分厚い壁を感じながら、それでも信じて進み続けるしかない生き方は苦しい。

けれどもその反面、夢を持たない(もしくは持てない)人間からするとそのあり方って実に眩しい。

そもそも、夢や目標を持っている人間の一番の強みは「進むべき方向」が存在することだ。何はなくとも動いてさえいれば、停滞はあれどゼロではない。僕で例えるなら、ブログで有名になりたいという目標があって、その実現のためにはひとまずがむしゃらに記事を書くことで前には進む。PV数には繋がらなくとも、少なくとも目標に向かって進んでいるという実感は得られる。つまるところ「夢がある」状態はある意味ではぬるま湯でもあるのだ。がむしゃらで向こう見ずな努力だとしても、夢の元にはそれが肯定されてしまうから。

それに対して、夢や目標が無い人間の苦悩は焦りだ。何にもなれない、やりたいことも見つからない自分に対する焦り。もしくはその焦りすら感じない自分に対する焦り。焦りはあるけれども、努力しようにもその方向が見付けられない。世の大学生の大半に該当するのはこの種の悩みだろう。『オレンジデイズ』しかり、『プロポーズ大作戦』しかり、『めぞん一刻』しかり。古今東西ありとあらゆる学園モノの主人公はこの道を辿る宿命にある。

ただし、努力をしなくていい状態ってこの上なく楽だ。目標が無いことを言い訳に、「俺らって何になるんだろうね〜〜」とボヤきながら鍋をつつき、酒を飲む大学生って絵になるし、進路の悩みそれ自体が大学生の本分だとすら言えるのだから。ところがそんな日々は長くは続かない。そのモラトリアムにはタイマーが付いていて、タイマーが鳴れば否応無しに決断と変化を求められる。そのタイムリミットに対する焦燥感は、何処にいたって付きまとう訳だ。

さて、僕がここで言いたいのは、夢を持つ人と持たざる人、どちらが良いとかそういうことじゃなくて、この『ネムルバカ』という作品が夢を持つ人/持たざる人、どちらにとってもバイブルと成り得る作品だということだ。

そのぬるま湯に浸かり続けるのか、脱却するのか。脱却した先に何があるのか。この作品はそれをいろんな角度で見つめられる作品だ。その時々の自分の環境や心情によって、この作品が語りかけてくるメッセージは違う。けれどもいつ読んだって、先輩は自堕落でかっこいいし、ゆみはバカだけど親近感がすごい。この2人のキャラクターを自分に投影しながら読むのも良いけれども、単純に彼女らのだらだらとした愛すべき日常に救われるのも一つの読み方だ。

たった1巻の、時間にしたら30分にも満たないその作品が、驚くほど僕らを救い、励ますこともある。何か心にモヤモヤがある時、騙されたと思って一度読んでみて欲しい。きっと後悔はさせないから。

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