サラ・クロッサン『わたしの全てのわたしたち』に魂を揺さぶられてみて欲しい

いい本

これを読んでいる間中、きっと僕は凄い顔をしていたと思う。

グレースとティッピは、腰から下が繋がった結合双生児。腕は2本ずつ4本だけど、足は2本。心臓は2つあるけど、腸は1つ。2つの感情と1つの身体。そんな彼女らの苦しみ、悲しみ、切なさ、喜び。それがこれでもかというほど僕の心に流れ込み、時に苦痛に表情を歪めながら、時に嬉しさに頬を緩めながら、ページを捲る手を止められない。

感情をガクンガクンに揺さぶられながら、大の男が深夜に涙ぐみながら1時間で読み切ってしまった。

サラ・クロッサン『わたしの全てのわたしたち』

わたしたちの葬式に、神様は要らない

この一文がずっと心に残っている。

生まれつき身体に刻まれた呪い。争いようのない運命に神様を恨みながら、けれども彼女らの生き方はどこまでも誠実で、正直で、清廉で、その在り方にまた胸が締め付けられる。

2016年にカーネギー賞を受賞した本作。原文は英語詩で書かれており、それを金原瑞人が文章として翻訳し、さらにそれを最果タヒが散文詩として書き直すという離れ業で訳された作品なのだが、読み終えてみれば、このテーマを描くにあたりこれ以上に相応しい形式も無い快訳だ。

原作はフィクションではありながら、実際に存在する結合双生児のドキュメンタリーやインタビューを下地に作られていて、物語は常に片割れ・グレースの目線で進められる。

文字通り、そして僕らが想像するより遥かにリアルな「二人で一人」。プライバシーも、日々の行動も、食事でさえも自由にままならない二人の生活は、呪いのようでありながら、その心の結びつきは限りなく深い。作中で描かれるのは、彼女らの初めての学校生活。友人との交流や初めての恋、家族の様子や手術に赴く心境。そういった感情を描ききることは、きっとどんな作家にも不可能で、その複雑な絶望と希望を真に知るのは本人たちだけのはずなのだ。

そういう意味で、どこか不明瞭で曖昧な自由詩という形式は、想像の余地とジュブナイル小説としての強度をしっかり保っている。最果タヒが紡ぐ言葉は十代の少女の柔らかさと強かさを内包していて、彼女らの感情をダイレクトに、且つとてつもない純度で僕らに突き刺してくる。

ページを捲るたび、違った感情が流れ込んでくる。その度に僕は表情を歪め、心の形を揺さぶられながら読み進める。果たして読み終えた時の感情はどんなだったか。思い返してみればこだま『夫のちんぽが入らない』、西加奈子『白いしるし』の読後感とも近い。大きな感情の塊に飲み込まれながら、その正体を探すのが心地良くて、昨日からずっとどこか浮付いた心持ちの僕である。

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