下北沢に寄せて

忘れもしない2013年3月23日。この日を境に下北沢という町は大きく姿を変える。

永らく地上を走っていた小田急線が地下に潜り、悪名高い「開かずの踏切」たちがその役目を終えた日だ。あの日、いつものようにオオゼキの前の踏切に長々と待たされ、ようやく開いたかと思いきや、開いていたのはわずか数秒で、再びせっせと降りる踏切に通行人が笑っていたのをよく覚えている。

以来下北沢では、町のどのビルよりも背の高いクレーン車がせっせと働く風景が当たり前になった。

増設なのか改築なのか、いずれにせよ全く完成形の見えてこない改造を繰り返し、ダンジョンのようにその姿を変え続ける下北沢の駅に、当時の面影はもはや無く、長いこと人々を飲み込み続けた南口も北口も今となってはなくなってしまった。

思えば昨年末に学芸大学に引っ越すまでの6年間、下北沢という町に浸り続けていた。

バイトも、ライブを観るのも、服を買うのも、友達と飲むのも、時間を潰すのも。学生時代の大半の時間は下北沢で過ごしたと言っても過言ではない。居酒屋でバイトをしていた事もあり、下北の飲み屋なんてアホみたいに詳しいし、知り合いの店員もごまんといる。西口に新しい店ができたと聞けば飛んでいき、北口の馴染みの店が周年だと聞けば顔を出した。町を歩いているとだいたい知り合いに出くわすものだから、そこから飲みに行って朝までカラオケなんて事も何回もした。

石を投げればバンドマンかお笑い芸人か劇団員に当たるこの町で、僕は一般人として町の暮らしを存分に謳歌した。

さて、そんな僕が、下北で最も多く聞いた言葉が何だったかを考えてみる。

それは間違いなく、「下北は変わった」だった。

バイト中に常連のお客さんから、馴染みの店の店員さんから、たまたま飲みの席で一緒だった名前も知らぬおじさんから、その言葉は「昔の下北」を知らない若者代表である僕に投げかけられたものだ。

確かに思えば、ぶーふーうー、千草、アンゼリカ、GOPAL etc…下北を象徴するような店が、この数年でいくつも看板を畳んだ。元々移り変わりの激しい町ではあるものの、何十年と続いた店が潰れるというのは流石にインパクトも大きく、その度に僕は抗いようのない時代の潮流みたいなものを感じていた。

かつてはいい歳のおじさんおばさん達の町であった下北沢は、気が付けば若者で溢れ、タピオカやらレモネードやらのインスタ映えするお店が日に日に増えていく。今では朝まで営業している店も随分減ったらしい。知り合い曰く、深夜は同業者(飲食店)しか客が入らない、と。

ちなみに安心してほしい。「停滞した老害は黙ってろ」とか「今の下北は若者の町になってしまった」とか、使い古された論調を持ち出したい訳では無い。僕がこの文章でしたいのは、ただ変わりゆく下北沢という町の姿を、今こうして記憶が残っている内に記しておくことだけだから。

さて、話を戻そう。

下北は変わったかと聞かれれば、間違いなく変わった。ただ、そこに寂しさはあれど、怒りとか悲しみは無い。人が変われば町も変わる。そんな当たり前のこと、部活に入れば中学生だって分かることだ。

僕の記憶に生涯残り続けるであろうカルチャーの一つに、劇団ロロの『父母姉僕弟君』という演目がある。

ロロ『父母姉僕弟君』が素晴らしすぎた

僕たちは止まらない時間の中で生きていて、どんな時空の一点にも留まることができない僕らは、いずれ全てを忘れてしまう。それを防ぐ唯一の方法は、描写すること。五感と語彙とあらん限りの感性をつぎ込んでその瞬間を描写すること。その瞬間、僕らの記憶は初めて実体を獲得し、決して消えない記録として残り続ける。

つまるところこの文章と写真は、日々刻々と変わりゆくテン年代の下北沢の姿を少しでも繋ぎとめようとする僕の努力だ。

こんな時代だ。町の姿が変わることに肯定も否定もない。ただ、自分が大好きな町の、大好きだった時代の話ができない大人は、少し情けない気がするのだ。

そういえば引っ越した理由を話していなかった。

僕は未だに下北に退屈を感じたことはないし、今でも住みたい町だと思っている。それでも僕が下北を離れたのは、このまま下北に居続けたら、きっと生涯下北に居続けることになりそうだと思ったから。他の町に住んでみて、それでも下北が良ければ戻ればいい。そう思って引っ越しただけのことだ。

 

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