cero『POLY LIFE MULTI SOUL』は、僕らに音楽を聴く楽しさを教えてくれる

いい音楽

ceroは、リスナーを信じている。

それはVo.高城本人も述べるところだし、その挑戦的な音楽スタイルはともすればたった3年で、今までのリスナーを置き去りにしてしまうほどに変革し、飛躍する。それでも彼らは探求を止めないし、そこに妥協は一切無い。

それは彼らが、彼らが辿り着いた境地に彼らの居場所があるという確信を持っていることの証明だ。どんなに難解で、高度な音楽を繰り出そうとも、自らの音楽が届くリスナーは存在するし、その音楽を受け入れようとする努力は決して少なく無い。

であるならば、こんなブログを運営する僕の役目とは何か。

以前、愛読している『青春ゾンビ』にこんな一節があった。

かつての『くるり』がそうであったように、現在のceroは若いリスナーの耳を教育してくれる存在だ。かつて、くるりの『TEAM ROCK』(2002)を理解する為に、DAFT PUNKやUNDERWORDやMy Bloody Valentineなど背伸びして聞いていた高校生の私。ジャズ、もしくはアルゼンチンやブルガリアなどの音楽を聞いてみよう、と思えたのもくるりがきっかけであった。

ヒコさんのこの言葉には途轍もない感銘を受けたものだが、今『POLY LIFE MULTI SOUL』を聴いて改めて、否、より強くこの事を思うのだ。ceroはリスナーを信じているし、リスナーもceroを信じている。ceroの音楽を理解するために、努力ができる人間は存在する。

ともすれば大多数の人に「変態的」「最先端」「難解」という言葉で片付けられてしまいがちなこの大傑作とその真髄を、より深く、より多くの人に届けるために。一聴して難解なアルバムの輪郭を、何周も聞き込んでやっと掴むその楽しさを伝えるために、僕は尽力したいのだ。

『POLY LIFE MULTI SOUL』を初めて聴いた僕

ceroギャ(ceroギャルの略称)として実に恥ずべきことではあるのだが、初めてこのアルバムを聴いた時、僕には全く理解が及ばなかった。

これまでの自分達の音楽を破壊するかのように、そのスタイルを劇的に変化させる彼らの最新作は、冒険的で破壊的。どこか密教的な不気味さと民族的な不明瞭さを持ち合わせていながらも、その耳触りはあくまでクールで都市的。変拍子やポリリズムを多用しているが故に、取っ付きづらいはずなのにポップでダンサブルな印象が拭いきれない。

要するにそのあまりに高度なコンテキストと膨大な情報量に圧倒されてしまい、音楽の輪郭や全体像が全くもって掴めない。今自分が聴いているものが一体何なのかが全く分からないのだ。

当然、そこで諦める僕ではない。

すかさず2周目。1周目では分からなかった、「川」「水」といったモチーフに象徴される詩世界の輪郭が掴める。相変わらず不気味なものに踊らされている感覚が拭えない。

続いて3周目。随所に散りばめられたポリリズムの心地よさに気付く。不気味なものに踊らされている、という感覚に埋没していく。次第にそれが心地よくなる。

そして4周目。複雑怪奇なリズム、巧みなパーカッション、重層なコーラス、そこで鳴らされているありとあらゆる音の存在に気が付く。それらがそれぞれバラバラなリズムと音色を持ちながら、ceroの名の下に一つの音楽として鳴らされている感覚を得る。

そこから先はよく覚えていない。

聴けば聴くほどに新しい音が見つかる。間奏で鳴らされるシンセの意味に気が付く。その歌詞が描く世界観が見えるようになる。ベースの余白やシンセの音色、パーカッションの響きに心奪われ、たまらない気持ちになる。そして最後、自分自身に沸き起こる「踊る」という意思に抗えなくなる。

気が付けば『POLY LIFE MULTI SOUL』というアルバムは脳裏に焼き付き、僕は日夜その音の世界に身を投じ、相変わらず不明瞭なままの巨大な何かに包まれながら踊っている。その心地良さに溺れるように、このアルバムの魅力に取り憑かれていったのだ。

 

『POLY LIFE MULTI SOUL』の正体

幸いなことに、この『POLY LIFE MULTI SOUL』というアルバムは簡単にその正体を解き明かせるような単純な作品ではない。時代の傑物が8人集まり、その音楽の高みを目指して全力で探求を行った極地の作品である。僕のような凡人は何周しようともその真髄には至れないのかもしれない。

だが、仮にその真髄に至らずとも、音楽を楽しむことはできる。

この音楽の構造を読み解き、自分が気に入る音やリズムを見つけたら、それをひたすらに追いかける。気が付けば自分はその音楽の内側にいて、今まで見えなかったものが見えるようになる。

もしくはもっと表面的に、深く考えずにただただ鳴らされる音楽に身と心を預ける。人間の遺伝子に訴えかけるようなこの音楽のダンサブルさは、いとも容易くあなたを踊らせてくれることだろう。

月並みな言葉ではあるが、音楽の楽しみ方は一つではない。100人いれば100通りの楽しみ方、聴き方があって然るべきなのだ。

そして『POLY LIFE MULTI SOUL』というアルバムは、そのタイトル通り実に多層的で多角的。単一的な意味付けを拒むように複雑な音楽世界を構築している。そういった音楽は聴く人によって姿を変え、聴き方によって全く違う景色を見せてくれる。

そういう意味で、この作品は実に探求し甲斐がある。言い方を変えれば、リスナーとして聴き込み甲斐のある作品だし、病的なまでの探求にも耐えうる名作なのである。

どんなに聴きこもうとも底が見えない。むしろ聴けば聴くほどいろんな要素に気が付いてしまって、深掘りしていく方向が増えていく。気が付いたらあなたの興味は彼らの音楽だけではなく、彼らのルーツにまで向けられていて、あなたの聴く音楽にまで影響を与えていく。

ceroが選ぶ「POLY LIFE MULTI SOUL」に影響を与えた9曲

ceroが信頼しているのは、そういったリスナーの一面であり、この作品をリリースすることで僕らリスナーは試されているとも言える。彼らの音楽家としての全力の探求に足る世界であるかどうか。彼らの妥協なき制作が、果たして意味を持つのかどうか。そういう意味では、オリコン1位という実績は、世界がceroにぶつけた1つのアンサーだと捉えていいだろう。

大変長くなってしまったが、要するに僕が言いたいのは、このアルバムを「すごい」の一言で片付けてしまうのは勿体無いということ。そして「難解」と決めつけて理解しようとしないのは更に勿体無いということだ。

音楽は素晴らしい。きっとあなたが思うよりも、そして僕が思っているよりも遥かに。

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